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ピオリア (アリゾナ州) : ウィキペディア日本語版
ピオリア (アリゾナ州)

ピオリア()は、アメリカ合衆国アリゾナ州マリコパ郡東部とヤヴァパイ郡に跨る都市であり、2007年の推計人口は146,743人である。主にマリコパ郡の中に入っており、フェニックス市の主要な郊外市である。面積ではアリゾナ州で4番目、人口では9番目になっている。市名はイリノイ州ピオリア市に因むものである(ピオリアという言葉はイリニ族インディアンの言葉で「プレーリーの火」を意味するものが訛ったものである)。現在、人口ではイリノイ州のピオリア市を超えている。メジャーリーグベースボールの春季キャンプでは、サンディエゴ・パドレスシアトル・マリナーズが市内のピオリア・スポーツ・コンプレックスを共有している。2008年7月時点で、「マネー・マガジン」の「住みたい町トップ100」に掲載された。
== 歴史 ==

=== 開拓初期 ===
ピオリアはソルト川流域のなだらかな傾斜をした砂漠地帯にあり、北にある山脈の麓まで拡がっている。砂漠にある町と同様、ピオリア開拓のための重要項目は水だった。雨季があり、また山脈から流れ出る雪解け水のためにソルト川が満たされ、時には氾濫して何ヶ月も掛けた労働を無にすることがあった。この地域に住み一年中生産性を上げていくとすれば、洪水と干魃のサイクルに打ち勝ち、年中制御できる信頼できる水の供給を確保する必要があった。開拓者はまず灌漑から始めた。1868年、ジョン・W・"ジャック"・スウィリングが一群の人々を組織して、ソルト川流域では最初の現代的灌漑用溝を掘らせた。これが成功してこの地域により多くの人々が定着するようになり、活性化した灌漑設備の恩恵を受けるようになった。
1872年までに、この渓谷には耕作用地8,000エーカー (32 km²) ができ、ソルト川沿いに繁盛する地域社会が建設された。年を経る間に灌漑会社が次々に現れ、その後の3年間でマリコパ、グランド、ソルトリバー・バレーの3運河ができてこの流域の成長を支えた。先見の明のある開拓者は当時完成したグランド運河より上の斜面上にひろがる砂漠を利用することで収入に繋がる可能性を考え始めた。このために1882年にアリゾナ運河会社が組織化された。この会社が提案した運河は、その後にピオリア市となる地域を含む約8万エーカー (320 km²) 以上を潤すものであり、より一貫性があり安定した水の供給を行えるものだった。
アリゾナ運河会社は元北軍将校ウィリアム・J・マーフィーをこの全長41マイル (66 km) の運河建設の指導者に指名した。イリノイ州出身のこの技師は大西洋太平洋を結ぶ鉄道(後のアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道)延伸部の評価を終えたばかりだった。会社はマーフィーに対する報酬を現金で支払えなかったので、その代償に土地と広大な土地に対する水利権を提案した。マーフィーは洞察力があったのでこの条件を飲み、1885年にアリゾナ運河を完成させた。
マーフィーはイリノイ州に戻って、土地を持続可能な農業地に変えるための開拓者を募集した。この地方の気候と農業における可能性に関する説明で、イリノイ州ピオリア市の何人かの住人が気を引かれ、間もなく5,000エーカー (20 km²) の土地を購入した。イリノイ州を離れた4戸の農家が現在ピオリア市となった所に移住した。開拓者達は単純な日干し煉瓦の家を建てるまで、大型のキャンバス地のテントに住んだ。ピオリアは当時まだフロンティアの都市で人口約3,500人に過ぎなかったフェニックスから14マイル (21 km) の距離にあった。フェニックスとハッサヤンパ川沿い現在のウィッケンバーグとを繋ぐ砂漠のぞっとするような道が唯一の輸送路だったが、1887年に新しい道路が敷かれた。道幅100フィート (30 m) のこの大通りはグランド・アベニューと名付けられ、新しい計画町のアルハンブラ、グレンデールおよびピオリアを斜めに横切り、直ぐにフェニックスからバルチャー鉱山に向かう主要道路になった。ピオリアの土地はイリノイ州から来たジョセフ・B・グリーンハットとデロス・S・ブラウンが事実上所有していた。1890年、この2人は砂漠土地法によって政府から4区画の土地を獲得した。彼等は1897年5月24日にマリコパ郡法務官と共にピオリアの配置図を登記し、故郷の町に因んでその土地をピオリアと名付けた。
ピオリアの町の初期計画図には、東西方向の道路として南からモンロー、マディソン、ジェファーソン、ワシントン、ジャクソン、リンカーン、グラントおよびヴァン・ビューレンの各通りがあった。また南北方向の道路として西からアーモンド(現在の85番アベニュー)、ピーチ(現在の84番アベニュー)、オレンジ(現在の83番アベニュー)、ヴァイン(現在の82番アベニュー)、ウォルナット(現在の81番アベニュー)と並んでいた。この区割りは現在のピオリア市で、85番アベニューを南に下ってモンロー通りの角から東に81番アベニューまで行き、そこからデザート・コーブ配列の南までが相当している。
提案されたピオリアの町の測量が済むと、1889年にグランド・アベニューとワシントン通り交差点に大衆が利用できる井戸が手掘りで掘られた。「町の井戸」は住民だけでなく旅人も利用した。5年後にこの井戸は給水塔に作り替えられ、タンクは高さ89フィート (27 m) もあった。水源としてだけでなく地域社会が集会を行う場所として、若い開拓地での住民の誇りの高まりを象徴するものに見えた。1888年8月4日、ピオリアの領域はその名前で郵便用住所として使われることを認められ、当時は27人が使った。マリコパ郡監督官が広さ49平方マイル (127 km²) の第11教育学区境界を定め、ワシントン通りに北向きに面した無人の煉瓦造り店舗で初めての授業が行われた。1891年には教室が1室だがピオリア初の学校が完成した。児童の通学は不安定だったが、9人の子供達を乗せて運ぶ荷馬車のお陰で郡の役人に目を付けられていたこの教育学区が救われた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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